すべて よい

いじめる側 いじめられる側 傍観者

傍観者に、勇気を持ってもらいたいと思った。

けれど、傍観することは、決して逃げていることではない。

その位置にいることで、自分の役目を果たしている。



うちの娘は、夏に、仲間はずれにされた経験があり、いまも、少々そのときのことをひきづっているようで、そのこたちが、うちに遊びに来ると、テンションが下がる。

遊びたくないともいわず、なんとなく、その場の雰囲気で少し一緒に過ごし、そして、別れる。

傍から見ていてちっとも 楽しくなさそうである。

それならば、遊びたくない とか 意思表示をすればいいのに・・・と思っていた。


暮れに、その友達とは違う子供たちが、大勢遊びに来た。

そこで、また仲間はずれが行われた。

今度は娘は、傍観者である。

自分が、仲間はずれにされて、嫌な思いをしたのではないのかい。

自分がされたことがあるから、傍観者になっているのか。

皆、除け者にした子が、怒られると思っていたようだが、私は、除け者にしたことをだまっているなら、一緒に除け者にしたのと、同じだと傍観者たちを怒った。


私は、傍観者が、勇気を持って、それはいけないことだといって欲しいと思った。
喧嘩するのはいいことだと思うが、仲間はずれでは、何も始まらない。喧嘩もできない。
仲間はずれは、一番いけないことだといった。

けれど、傍観者は、傍観という立場で、自己主張をしている。

入らない争いを、起こさないように。
黙っている方が、いいという、選択をしてそこにいる。

それがいい悪いではなく、そういう経験をさせてもらえたということ。

皆、役者なのだと思った。

娘に、そしてそれぞれの子供たちに、いろんな気持ちを経験するようにそれぞれの役割を演じてくれている。

ただ、それだけのことなのだ。

しかし、私は、娘に、仲間はずれにされて、嫌な気持ちを知っているならば、「そんなこといったらあかん」 とか、いえるような子になってほしいと、いってしまった。

私は、娘が、言えるような子でなくてもいい。普段はそう思っている。

そんなこといえない子は、大きくなってもいえないし、言える子は、小さいうちからいえる。

そんなことは、どうでもいいと思っていた。

思っていたのに、

娘に、自分の理想を語ってしまった・・・・。

理想あったんだ。私。


でも、それも、すべて よい ことなのだと、後から知った。

親が、子供に、理想を言って聞かせるのは、とてもいいことで、そのとおりにならなくても、親は、こういうことを思っているということを知らせるのは、いい。

なので、結局、すべて よい のである。

私たちは いろんなことを経験するために ここで生きている。

私が、いろんなことを経験するために、周りの人たちが、その役を演じてくれている。

娘に仲間はずれにされるという経験を味あわせてくれる子。

傍観者という立場を味わうようにしてくれる仲間。

一緒に、遊んでくれる友達。

どんなときの、どんな子達も、いろんな経験を、私たちにくれている。

すべて すべて それでいいのだ。


娘を、仲間はずれにしてくれた子よ。  ありがとう。

娘を傍観者にしてくれた子よ。  ありがとう。

私に、すべて それでいいのだと 教えてくれた人たちよ。 ありがとう。


すべて よいことばかりで すばらしい。

私たちは、すばらしい今を 生きている。





2009/01/15(Thu) 13:56:57 | 日記
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摩耶
京田辺在住です。

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